私の大切な先生
祖堅方正先生_R
ありし日の先生
(40歳前後の時の先生)

祖堅先生との出会い

今日は、私の大切な先生。祖堅先生との思い出を書きたいと思います。

祖堅先生が亡くなられたことを2年近くも知りませんでした。とても悔しくて残念でなりません。

私が祖堅先生に出会ったのは私が19歳の時、高校を卒業して尚美高等音楽学院で1年間音大受験の勉強をし、国立音大受験に失敗した年の4月。
もう1年だけ東京に残ってトランペットを頑張って音大を目指そうとしていたのが19歳の春。4月でした。

尚美で今度、トランペットの先生が変わる、と聞かされました。
当時、高校の先輩がトランペットで国立音大に行かれていて、先輩も祖堅教室ということもあって、祖堅先生の事は少し聞いていましたので名前とNHK交響楽団のトランペット首席奏者だ、というぐらいは知っていました。
どんな先生だろう、と思いながらのレッスン初日。
タイミングが良かったというか、私たちレッスン生も初日ということで少し早目にレッスン室へ行ったのですが、先生も早目に尚美のレッスン室に来られていて、バックのシルバーのトランペットで音階を吹いておられた時にレッスン室へ入って行っての出会いでした。
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先生のレッスン

先生の事を一言で言うのは難しいのですが、トランペットや音楽に対していつも真摯に向き合っておられました。
レッスンでは、レッスン生の個の感性を大切にして下さり、厳しくも優しく、そして楽しくレッスンをして頂きました。レッスンではいつも安心して受講出来たのです。練習して来たのかそうでもないのかはすぐに見破られます。練習をしてこないレッスン生には大変厳しい先生で、レッスン時間も、あっ!という間に終わります。
練習して来た生徒へは、物凄い情熱を持ってレッスンをされました。練習で出来なかった所は良くヒントを頂きました。

私がアーバン金管教本の音階レッスンをして頂いた時は模範演奏をして頂きましたが、私たちからすれば雲の上のような存在の先生なのですが、模範演奏なのにちょっと指使いを間違ったりして吹かれるのです。こんな時、えぇ~プロでもこんな間違いするんだァ~、みたいに単純に思い、先生との距離感が物凄く縮まったような気がしたものでした。
この音階のレッスンでは、徹底的にブレスコントロールのことを学びました。本当に「息」一つでこんなにもラッパの音が変わるんだ!と自分でびっくりするぐらいレッスンを通して私のラッパの音は格段に良くなりました。
そしてこのことを機に高音域の音がとても楽に出せるようになったのです!

レッスンの後は私たちレッスン生に昼ごはんをよくご馳走してもらいました。東京に出てきてラッパの勉強をしている私たちのようなレッスン生はお金がなく、日頃余り食べていない、ということを知っておられた先生でした。お昼をご馳走になりながら先生はご自身のことやN饗の裏話やフィリップ・ジョーンズブラス・アンサンブルのことや指揮者の癖のこと音楽のこと等々、楽しく話をして下さいました。
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先生の優しい愛情

私は、先生の期待をかなり裏切って、当時毎日コンクールへ出なさい、と言われ、その後にラッパの音が出なくなりチャンスを逃し元に戻すのに苦労しました。そんな中、先生からトランペット用のコンコーネの楽譜を頂き、
渋谷、これでスラーの練習をやれ。オレもお前のような症状の時に使ったから、と言われ頂きました。
ここまでして頂き練習しないほうがおかしいです。

また、渋谷、お前、最低音のドだけのロングトーンを1日中やったことあるのか!本当に力があるなら自分で這い上がれ!

色々怒られましたね。
でも、その都度先生の優しい愛情が感じられるので。やるっきゃない。とこっちも思うのですね。
私が東京を離れる時に、「トランペットを地方で広げるための礎になります。」と先生に言った時に残念そうな顔もせずに「それもいいよ」と言って下さいました。
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Joy Music設立の動機

この先生との会話は、今回ここに書いたことだけでなく先生との色々な関わりの中でなされたものです。私が中学の音楽教師になったのも、Joy Music設立の動機もまさにこの時の祖堅先生との会話があったからです。
私の大切な先生が亡くなられたことは、とても悲しく残念なことです。もっと長生きして頂き先生に会いに行きたかったのです。
沖縄で活躍されていたのは知っていましたので、いつかは、と思っていました。
今は只々ご冥福をお祈り致します。
本当につい、この間の事のように思います。
もう、先生とお別れして40年もたっているのにです。